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8月27日は、宮澤賢治の誕生日・・・被災された方々に贈る「雨ニモマケズ」

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さて、「今日は何の日?」シリーズ第54弾です。

今から118年前、1896年 (明治29年) 8月27日に、宮澤賢治が現在の岩手県石巻市で生まれました。

詩人、童話作家として生き、1933年に37歳の若さで亡くなりました。

宮澤賢治

『雨ニモマケズ』のモデル

代表作は、『銀河鉄道の夜』(1933年)や『風の又三郎』(1934年) がありますが、やはり『雨ニモマケズ』(1931年) が有名です。

この詩のモデルとされるのは、斉藤宗次郎という人です。

斉藤宗次郎は、1887年に現在の岩手県花巻市に生まれ、小学校の教師になりますが、内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。しかし、それからが大きな戦いのはじまりでした。

当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた時から迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。

迫害の手は、家族にまで及び、近所で火事が起きたとき嫌がらせで放水され、家を壊されたことがありました。何度もガラスを割られることもありました。

そして、さらにひどい迫害が起こりました。9歳になる長女が「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまったのです。

宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。

普通なら、迫害のない土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろその土地の人々に、神様の愛を持って仕えることを選びました。

牛乳配達と新聞配達のため、1日40キロの配達の道のりを走りながら、迫害する人々にキリストを宣べ伝えました。10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげたという話しは有名です。

彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続けました。彼は「でくのぼう」と言われながらも、最後まで愛を貫き通したのです。

そして、1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになりました。

花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど人が集まっていました。

駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。

実はその群衆の中に、若き日の宮沢賢治もいたのです。

被災された全ての方々に捧ぐ

改めて「雨ニモマケズ」を読み返してみました。久しぶりに読んだ詩は、心に沁み入るものでした。

これは、YouTubeにアップされていた、渡辺謙さんが詩を朗読した映像です。静かな部屋で、耳を澄ましてみては如何でしょう?

つい先日の大雨で被災された方々、かつての大震災などで被災された方々すべてに捧げます。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち

欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを
自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり
そして忘れず

野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば
行って看病してやり

西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず

そういうものに
わたしはなりたい

・・・・・・・
さて、今日はここまでにしますね。
ではまた!
 
 
・・・・・・・・・・・・
(2014.8.27記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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Consulting Office SMART代表/富田邦明が人となりをお伝えするために運営しています。

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