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さて、「今日の一言メモ」第96回です。
「TTP (徹底的にパクる) 」から「守破離」へ
何事も、基本が身に付かないことには、その先に進むことはできません。基本ができていないのに、一人前を気取ると「鵜の真似をする烏」になってしまいます。
例えば、今は一人前の料理人になっている方でも、当然修業時代はあったわけです。職人の世界ですから、きっと手取り足取り教わってきたわけではないでしょう。
長い間、皿洗いや野菜の皮むきなどの下働きをしながら、親方や先輩たちの手元を盗み見て、徹底的にパクってきたはずです。
そして、時を経て「守破離 (しゅはり) 」へ進んでいきます。武道や茶道、あるいは芸術の分野では、「守破離 (しゅはり) 」と呼ばれる、修業における段階があります。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階です。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階です。
そして、「離」という、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階へと至ります。
「烏 (からす) 」は、いつまで経っても「鵜 (う) 」にはなれませんが、人は修練を重ねることで、どんどん進化していくわけです。
その先は「生き方」を追求する道へと続く
人間一人前になった後の姿勢が大切と思います。一人前になった大人が「生きる意味」とは何でしょう。いろんな答えがあると思いますが、例えば「誰かに貢献する、誰かのお役に立つ」こともそうでしょう。
つらつら考えていると、2014年11月10日に亡くなられた、高倉健さんが死の直前に書いた手記に記された座右の銘に行き着きます。
「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」
意味は、以下の通りです。
行く道は精進にして
辛いことがあっても、それは精進である。
自分を高めるために必要なことなのだ。
忍びて終わり、悔いなし
それを我慢したまま、たとえそれで終わることがあっても、自分の向上にとっては確実にためになっているのだから悔いはない。
高倉健さんは、俳優という仕事を通して、多くの人の行く道を照らし、励まし、その生き様を通して人を導いてきました。
まさしく、その生き方は精進そのものであり、志半ばで病にその命を奪われましたが、悔いは無かったと思います。
というわけで、「生きる」とは何か?、を定義すると、「人さまに貢献するために精進し続けること」だと思う次第です。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2019.4.23記)