(画像出典元はこちら)
東日本大震災で喪ったもの
昨日は、あの3.11から満12年が経過した日でした。東日本大震災は、多くの人命やかけがえのないものを奪っていきました。そして、それは残された人々から、なんてことない、ほんとうになんでもない日常を奪ってしまいました。
幸せだったはずの前の日は、もう戻ってきません。悪夢なら覚めて欲しいと、どれだけ多くの人が願ったことでしょう。
喪失して初めて知る、その大切さ
人生を歩む中では、大切な何かを喪う場面が必ずあります。愛する人だったり、親しかった友人だったり、もしかしたら健康かもしれません。
では、それを喪うまでの間、本当に大切にしてきただろうか、と喪ったあと自らに問うて、一点の悔いも残らず自信を持ってイエスと答えられる人はどれだけいるでしょうか?僕も答えられません。
多くの場合、喪ってみて初めてその大切さを痛感し、なぜもっと早くその大切さに気づき、感謝し、そして大事にしてこなかったのだろう、と悔やむことになるのです。
まだ喪っていないものの価値に気づく
大切なものを喪った時、私達は喪失感を覚え、なぜもっと大事にしてこなかったのかという後悔の念に苛まれ、絶望感に陥るかもしれません。
でも、そうした場面では、まだ喪っていないもので、その価値に十分気づいてこなかった “なにか” に気づき、もっとそれらを大事にする機会が訪れた、と考えるのが良さそうです。
自分にとって、とても大切な友人がいて日頃すっかりご無沙汰していたとします。その友人のことを思い出しても「いつか時間ができたら食事に誘おう」とか「今度正月休みに帰省したら会おう」などと、日頃の忙しさに紛れてつい先送りしがちです。
そんな時は、すぐに会えなくても、ちょっとアナログに手紙を書いてみるとか、電話してみるとか、連絡だけでも取ってみては如何でしょう?
今は未災者でも、いつ被災者になるか分かりません。今過ごすことができている「何気ない日常」の大切さを深く心に刻み、その日常の中でつい忘れがちな大切なものの存在に心を向けたいと思います。
・・・・・・・
さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
・・・・・・・・・・・・・・・
(2023.3.12記)