「今日は何の日?」シリーズ第90弾です。
その記念すべき90回目を飾るのは、「ミスタージャイアンツ」長嶋茂雄氏です!
引退試合と引退セレモニー
今から40年前、忘れもしない1974年10月14日…秋晴れの東京・後楽園球場で、シーズン最終戦となる中日戦ダブルヘッダーが行われ、これが長嶋茂雄選手の引退試合となりました。
物心ついた時から、根っからの長嶋ファンでしたが、この日は球場に行くことができず、テレビに映る勇姿を食い入るように見つめたものです。この時、富田は大学一年生・・・
試合終了後、夕暮れ迫る中で引退セレモニーが行われました。この時のスピーチで、「我が巨人軍は永久に不滅です!」という名言が生まれたのです。
まずは、その時の映像をご覧下さい。
当時、涙が溢れてまともに見ることができなかった記憶があります。セレモニー終了後、同じく長嶋ファンの友人達に電話して「見たか?見たよな?感動したな!」と、押さえきれない気持ちを分かち合ったものです。
「巨人・大鵬・玉子焼き」の世代で、中でも大の長嶋ファンでしたから、その後数十年に亘り、このスピーチのシーンが流れるたびに、パブロフの犬よろしく (涎ではなく) 涙が自然に流れたものです…今日もまた…(^^;
思い出の数々
立教大学野球部時代に、東京六大学リーグの記録となる8本塁打を放ち、華々しい話題を提供しつつ、1958年に読売巨人軍に入団しました。
入団した年のオープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍が当然視されて迎えた開幕戦、対国鉄スワローズ戦で国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫します。そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれています。
しかし、その後は400勝投手となる金田投手を打ち崩し、通算3割を超える打率を残しています。
そして、闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで、巨人の4番打者として活躍します。
1959年6月25日、この日は昭和天皇が試合を観戦された日本プロ野球史上初の天覧試合でした。同点で迎えた9回裏、先頭打者として打席に立った長嶋選手は、ここで劇的なサヨナラホームランを放ち、その勝負強さがまた伝説となりました。
その後は、王貞治選手と3番・4番打者の「ON砲」として活躍し、巨人軍のV9という黄金期を支えたのです。
その頃発刊されていた雑誌『少年』1962年4月号の表紙を飾る、長嶋選手の画像が残されていました。
富田は、勿論こんな美少年ではありませんでしたが、ちょうどこの位の歳でしたね。
さて、長嶋選手の現役生活17年間の年度別打率・打点・本塁打数は次の通りです。
通算で首位打者 6回、本塁打王 2回、打点王 5回、最多安打数 10回 と、記録面でも凄いですが、なんといっても「ここぞ」という場面、ファンの期待が最高潮に高まった場面で、必ずといってもいいほど快打をかっとばしてくれたのです。
まさに「記録より記憶に残る男」だったのです。
当時の愛称は「ミスタープロ野球」、「ミスタージャイアンツ」、「ミスター」、「燃える男」などなど、一つの野球チームのヒーローというだけでなく、まさに国民的英雄だったのです。
そして、現役・監督引退後の2004年3月4日は忘れられない日となりました。
富田が48歳の誕生日を迎えたその日、長嶋さんが脳梗塞で倒れ、入院したのです。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残りました。
そのニュースは大変な衝撃でした。そして、その時自分が長嶋さんのためにできることは祈ることしかないのか、とヤキモキ考えたのですが、ふと思いつき、どうしてもやめられなかったタバコを一切断つことにして回復を祈り続けました。
不思議なもので、別段禁断症状を覚えることもなく、スパッとタバコをやめることができました。あれから10年、禁煙は続いています。ほんと、禁煙できたのは長嶋さんのおかげです…
そして、長嶋さんは発症時のことを思えば、驚異的な回復といえると思いますが、不自由ながらご自身の足で歩くことも、お話しもできるようになりました。
昨年は、松井秀喜氏と共に国民栄誉賞も授与され、満面の笑みを浮かべておられたことが印象深かったです。
現在78歳、まだまだお元気でいて欲しいと願う、富田にとっては「永遠のヒーロー・長嶋茂雄」なのでした。
・・・・・・・
さて、今日はここまでにしますね。
ではまた!
・・・・・・・・・・・・
(2014.10.14記)