「今日は何の日?」シリーズ104回目です。今回は、第二次世界大戦では同盟国だった日本とドイツで、歴史的な出来事があった日です。
大政奉還、そして王政復古の大号令
今から147年前の1867年11月9日 (慶応3年10月14日)に、徳川慶喜が二条城で大政奉還を宣言しました。
江戸時代、徳川将軍は日本の統治者として君臨していましたが、形式的には朝廷より将軍宣下があり、幕府が政治の大権を天皇から預かっているという形だったのです。
幕末になると、朝廷が自立的な政治勢力として急浮上してきます。
主にペリー来航などによる対外問題において、幕府との溝が深まりました。こうして幕府権力の正統性が脅かされる中で、幕府は朝廷に対して大政委任の再確認を求めるようになりました。
慶応3年10月の徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するもので、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件でした。
しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していました。
慶喜はその後、将軍職辞職も朝廷に申し出ますが、辞職が勅許され幕府の廃止が公式に宣言されるのは、12月9日の王政復古の大号令まで待つことになります。
大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体体制を樹立することにありました。
しかし、大政奉還後に想定された諸侯会同が実現しない間に、薩摩藩を中核とする討幕派による朝廷クーデターが起こったのです。
ベルリンの壁崩壊、そして冷戦の終結
そして、今から25年前の1989年11月9日に、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツの国境検問所で市民の通行が自由化されました。
ことの発端は、東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で誤発表した事にありました。
実際に壁の人為的・物理的破壊が始まったのは11月10日ですが、崩壊の日付は、その起源である国境検問所のゲート開放が行われた11月9日とされているようです。
ここに至る背景には、社会主義と民主主義の対決、そして冷戦がありました。
戦後、ドイツは東西に分裂し、その後東ドイツは社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれたほどになりました。
しかし、1970年代後半の第二次石油危機以降、西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済、党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では、経済の構造改革が出来ませんでした。
1980年代には、世界屈指の経済大国となった西ドイツに東ドイツは大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていったのです。
当時のソ連のトップであるゴルバチョフは、従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交、ペレストロイカを展開していましたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況にありました。
ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立ったのです。
壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言し、ここに長く続いた一つの時代が終わりを告げました。
・・・というわけで今日は、日本そしてドイツで大きくその政治体制が変わった記念日といえます。こうした節目の日には、やはり世界の平和を祈らずにはいられません。
日本の周辺でも、きなくさい出来事が続発しています。どうか平和的な解決がされますように、と祈る休日の朝なのでした。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2014.11.9記)