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さて、「今日の一言メモ」第8回です。
「インナー世間」との戦い
自分の内面を見つめると、そこには見栄やプライドが巣くっています。いわゆる「世間体が悪い」「ご近所さまの目が気になる」という意識です。
知人は、こうしたもの達を「インナー世間」と呼んでいます。インナー世間は、自分を縛る鎖と言っても良いでしょう。
我と我が身を振り返れば、55歳で33年間勤めた会社をアーリーリタイアメントして、フリーランスのITコンサルタントとして独立して半年後に、そのインナー世間に絡め取られたことがあります。
その頃は、会社を辞めて独立したのだから、しっかりと地に足を付けて前向きに進んで行かねば・・・と力んでいた時期でした。
その結果、陥ったのが次のような状態でした。
「試行錯誤して失敗することを怖がっている自分」
「みっともない姿を晒すことを怖がっている自分」
「臆病で前に踏み出すことを躊躇している自分」・・・
気がつくとそこには、信頼されるコンサルタントとして評価されるように、絶対弱みを見せないように力んでいた自分がいたのです。
結果として、その力みが自縄自縛となり、失敗を恐れて色々な事に積極的に取り組むことを躊躇させていました。
要するに、その時は「他の人に認められたい、評価されたい」という承認欲求が強く、それが却って行動にブレーキをかけていたのですね。
何か変なことをしでかして、人から後ろ指を指されたり、バカにされたり、イタい人だと思われることを極端に恐れていたわけです。
なにか事を起こすなら「痛い人」になるのは通過儀礼
こうして、自分の内面に巣くう「世間体」「見栄」「プライド」との戦いが始まりました。
この頃は、「他の人に認められたい、評価されたい」という承認欲求が強かったわけですが、別の見方をすると、自分のことを過大評価している・・・というより過大評価したがっていたのです。
自分を過大評価したい自分がいたため、失敗したりみっともないことをするのを自分に許していなかったのです。要するに上手くやれること、ちゃんとやれることしかできなくなっていたわけです。
そんな時に、それまで数年間購読していた「平成進化論」というメルマガの一文が目に留まりました。それは次のような内容でした。
なにか事を起こそうと思ったなら、「痛い人」になるのは通過儀礼のようなものである。
そこを通過しないと次の世界には出られないのだ。
だから「みっともない人」「恥ずかしい人」「痛い人」だと後ろ指を差されれば、その事実を喜べばいい。そうやって試行錯誤しているうちに「やり方」が分かり、洗練もされてきて、目指す世界に到達できるだろう。
そのときになって自分に向けられていたその指(後ろ指)を、そっとご本人の方に向け変えて差し上げれば良いだろう。
この一文を読んで、「そうか!痛い人になってもいいんだ!みっともないことをしてもいいんだ!」と膝を打ちました (単純…(^^; )。もう世間体や見栄やプライドなどに縛られてたまるか!と思うようになったのです。
それから、挑戦 (チャレンジ) という言葉を「みっともなくジタバタあがくこと」と再定義したのです。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2019.1.12記)