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さて、「今日の一言メモ」第412回です。
「禍福は糾える縄の如し」
今日は、「禍福 (かふく) は糾 (あざな) える縄の如し」という格言に注目しました。災いと幸福は、まるでより合わせた縄のように表裏一体で、かわるがわるやって来るものという意味ですね。
不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりするわけです。
成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということを表しています。
『史記・南越列伝』には「禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえば糾える縄の如し」とあり、『漢書』には「それ禍と福とは、何ぞ糾える縄に異ならん」とあるそうです。
「糾える」は文語動詞「あざなふ」の命令形+完了を表していて、文語助動詞「り」の連体形からで、「あざなふ (糾う) 」は「糸をより合わせる」「縄をなう」を意味しています。
類義語の数々
世に類した言葉は、たくさんあります。
「浮世の苦楽は壁一重」「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」「人間万事塞翁が馬」「楽は苦の種、苦は楽の種」etc,etc…
僕は、特に「人間万事塞翁 (さいおう) が馬」が記憶に刻まれています。これは、次のような故事に基づいています。
昔、中国北方の塞 (とりで) 近くに住む占いの巧みな老人 (塞翁) の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという。
コロナ禍の後には、きっといいことがある
いつ聞いた言葉でしょうか。大きな不運が訪れた人は、いずれ大きな運が訪れてくれる、小さな不運であれば、それに見合った小さな運しか訪れない。いずれにしてもトータルでは+−ゼロだと。
このコロナ禍が、いつ終息するか皆目分かりませんが、5年も10年も続くはずはありません。これだけの出来事の後ですから、きっといいことが順番に訪れてくるはずです。
それは、とんでもなくいいことではなく、コロナ禍に見舞われる前の「何でもない日常」のはずです。それが戻ってくることが、きっと一番いいことなのです。それが一番幸せなことなのだと思います。
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さて、今日はここまでにしましょう。
では、また!
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(2020.4.27記)