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さて、「今日の一言メモ」第476回です。
「罪を憎んで人を憎まず」
「罪を憎んで人を憎まず」とは、犯した罪は憎むべきだが、その人が罪を犯すまでには事情もあったのだろうから、罪を犯した人そのものまで憎んではいけない、という教えです。
孔子およびその代々の子孫の言行を載せた『孔叢子 (くぞうし) 』刑論にある孔子の言葉「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが、人そのものは憎まなかったの意味)」が由来になっているそうです。
失敗するのが人間であり、失敗そのものは罪ではない
罪を犯す(=法を犯す)ということは、その行為自体がいけないことです。そして、嘘をつくことは罪ですが、「嘘も方便」という通り、人助けのためなら嘘をつくことも許されるとされています。
また、生きていく上で失敗することはしょっちゅうあるわけですが、失敗=いけないこと=罪と考えてしまいがちです。
そして、罪を犯してしまった自分を責めます。「自分はなんてダメな奴なんだ」と落ち込み、自己否定の道をまっしぐら……。
でも、何かを失敗したということは、うまくいかないやり方を発見しただけです。だから、自己を否定するのではなく、まずうまくいかないやり方を発見した自分を褒めてから、別のやり方を試せばいいだけです。
「あり方 (Being) 」を変えずに「やり方 (Doing) 」を変える
自己を否定するということは、自分自身の「あり方 (Being) 」を否定することになってしまいます。
「あり方 (Being) 」とは、自分が生きる上で拠って立つところであり、僕は「基軸」と呼んでいます。
自分の「あり方 (Being) 」を、「何度失敗しても立ち上がり、チャレンジし続ける」と定義すれば、その基軸をゆるぎなく貫き、失敗したら次の「やり方 (Doing) 」を試していけばいいと思うのです。
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さて、今日はここまでにしましょう。
では、また!
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(2020.7.13記)