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「禍福は糾える縄の如し」
「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」とは、災いと幸福は、まるでより合わせた縄のように表裏一体で、かわるがわるやって来るものという意味ですね。
不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりするわけです。
成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということを表しています。
『史記・南越列伝』には「禍に因りて福を為す。成敗の転ずるは、たとえば糾える縄の如し」とあり、『漢書』には「それ禍と福とは、何ぞ糾える縄に異ならん」とあるそうです。
悪い事があれば、必ず良い事があると信じる
「禍福は糾える縄の如し」に類した言葉は、たくさんあります。
「浮世の苦楽は壁一重」「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」「人間万事塞翁が馬」「楽は苦の種、苦は楽の種」etc,etc…
僕は、特に「人間万事塞翁(さいおう)が馬」が記憶に刻まれています。これは、次のような故事に基づいています。
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が気の毒がると、老人は「そのうちに福が来る」と言った。
やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は「これは不幸の元になるだろう」と言った。
すると胡の馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまった。人々がそれを見舞うと、老人は「これが幸福の基になるだろう」と言った。
一年後、胡軍が攻め込んできて戦争となり若者たちはほとんどが戦死した。しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しなくて済んだという。
つらさ・苦しさを味わい尽くす時
つらい時や苦しい時は、そのつらさ・苦しさを味わい尽くす時期が到来したのだと、そのつらさ・苦しさを我と我が身に十分感じさせるチャンスなのだと、言い聞かせてみてはどうかと思っています。
今、この時を存分に味わい尽くし、我と我が身に染み込ませれば、明るく楽しい時が到来した時に、その明るさや楽しさを何倍にも感じることができるのだ、と思えばなんとか耐えられるのではないでしょうか。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2023.5.24記)