「今日は何の日?」シリーズ第64弾です。
乃木希典大将夫妻の殉死
今から102年前、1912年 (大正元年) 9月13日に、その年に崩御された明治天皇の大葬が行われました。そして同日午後8時、乃木希典大将が夫人とともに自宅で殉死したのです。
乃木は、以下のような辞世を残しました。
神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる
うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり
また、妻の静子は、次の辞世を詠みました。
出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき
人望のあった乃木大将
乃木大将の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、号外を手にして道端で涙にむせぶ者もいたとか。
一方で、乃木大将の教育方針に批判的だった、白樺派の志賀直哉や芥川龍之介などの一部の新世代の若者たちは、乃木の死を「前近代的行為」として冷笑的で批判的な態度をとったようです 。
これに対して、夏目漱石は小説『こゝろ』、森鴎外は小説『興津弥五右衛門の遺書』をそれぞれ書いて、白樺派などによってぶつけられるであろう非難や嘲笑を抑えようとした、とあります。
乃木夫妻の葬儀は、1912年9月18日に行われました。葬儀には十数万の民衆が自発的に参列し、その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現されました。また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現されたのです。
「殉死」という行為について
調べてみると、古代より殉死・殉葬という習慣はあったようです。中国の歴史書『三国志』の「魏志倭人伝」に、邪馬台国の女王卑弥呼が死去し、塚を築いた際に、100余人の奴婢が殉葬されたという記述があったとか。
日本では、武士社会において、主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った時は、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていたのです。
その後、殉死や追い腹は美徳とされる文化が続きます。しかし、江戸時代になってから、殉死を禁ずることが武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされました。
その後も、主従関係がはっきりとしている軍人社会の中では、「滅私奉公」を旨とし、主君亡き後は存命する意味なし、とする考えは根強く残ったのです。
ちなみに、昭和天皇が崩御されたのは、今から25年前ですが、その時も元軍人だった数名の殉死者が出ているほどです。
誰か他人のために殉死するという行為は、この現代において冷静に考えると非論理的な行為に思えます。
一方で、自分の命に代えてでも守りたい最愛の人を失った場合、後を追いたくなるのは、心情的に理解できます。
これは理屈ではないからです。後を追うことの是非を問えば、それは非であろうと思います。でも、それはあくまで論理の世界です。
乃木大将夫妻も、一身を明治天皇に捧げて生きてきたのは紛れもない事実でしょうから、天皇をお見送りした後、自身の身を処する方法は殉死しか選択肢がなかったのでしょう。
これも「いい・悪い」では判断できないことだと思います。
また、一身を捧げるにふさわしい人に巡り会い、仕えることができたということは、ある意味とても幸せなことだったのかもしれません。
・・・というわけで、現代に置き換えれば、自分の命に代えてでも守りたい最愛の人を失ったとしても、それだけの人に巡り会えたことに、まず感謝をしなければいけないな、そして、なんとか後を追うのは思いとどまらなければ、などとつらつら思った週末土曜日の朝なのでした。
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さて、今日はここまでにしますね。
ではまた!
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(2014.9.13記)