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” 大喪の礼 ” の日に思うこと

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「今日は何の日?」シリーズ・ライト版です。

さて、今日は昭和天皇の「大喪の礼」が行われた日です。

「大喪の礼」とは

今から26年前の1989年 (平成元年) 2月24日に、この年1月7日に崩御された昭和天皇の大喪の礼が行われました。

「大喪の礼」をWikipediaで調べると、次のように記載されています。

大喪の礼 (たいそうのれい) は、国の儀式として行われる天皇の葬儀。「喪」は「うしなう」という原義から人の死、さらにその追悼と葬儀を意味する字であり「大喪」で「君主の死とその服喪と葬儀」を意味する。

日本では「大喪」だけで「天皇の崩御と斂葬」を指す (反対語は君主 (天皇) の即位を指す「大典」) 。

激動の時代を生きた昭和天皇

昭和天皇というと、平成生まれの方々は勿論教科書でしか知らないわけですが、激動の昭和にあって、大きく天皇制の在り方が変わった時代の天皇でした。

特に象徴的な出来事に、あの第二次世界大戦の敗戦が決まった1945年8月15日の正午、昭和天皇の肉声が、ラジオ放送を通じて初めて国民に届けられた、いわゆる玉音放送が挙げられます。

その玉音放送の中で、日本軍の全面降伏を突き付けた連合国側のポツダム宣言を受諾し、戦争を終結することが伝えられたのです。

当時、神聖不可侵とされた最高権力者である天皇の肉声が、初めてラジオで放送されると共に、戦争終結が発表されたわけです。

この時以降天皇は一人の人間として、新憲法により国民の象徴と定められていきます。

玉音放送前には、この放送を阻止しようとする軍部の一部が天皇の肉声が記録されたレコードを奪取しようと画策したほど、軍部との軋轢もありました。

ポツダム宣言受託も、御前会議における昭和天皇の英断だったそうです。

この時の昭和天皇の英断がなく、ポツダム宣言を拒否していれば、日本は連合国側に蹂躙されて、天皇制が残らないどころか、今頃連合国の一部に併合されていたかもしれません。

「大喪の礼」の日に思うこと

敗戦直後、マッカーサーが日本に進駐した時に、昭和天皇は戦争の責任を一身に負うことを表明し、処刑されることを覚悟して、単身マッカーサーの元に赴いたそうです。

マッカーサーは自伝で、その時の昭和天皇の姿に感銘を受け、天皇を処刑すべしという連合国側の方針を覆すべく奔走したと述べています。

そういった意味で、昭和天皇の存在は今の日本、そして我々の生活にとても大きな意味を持っていたことになります。

・・・というわけで、世界でも類を見ない歴史を誇る日本の皇室の存在はとても貴重であり、特に昭和天皇の果たされた役割は極めて大きかった、と改めて感じる火曜日の朝なのでした。

・・・・・・・
さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
 
 
・・・・・・・・・・・・
(2015.2.24記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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