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さて、この二日間、アドラー心理学について書かれた「嫌われる勇気」の内容を思い出して考えたことを書き留めてきました。今日も続けます。
「あの人」の期待を満たすために生きていないか?
一定の収入を得られるようになると、金銭的な自由度は上がります。しかし、現実的なしがらみ等の対人関係の悩みは尽きず、不自由なままです。
厳しい親は、何かと子どもの進路に口出しして、プレッシャーをかけ続けます。こうしたプレッシャーは、まさしく「しがらみ」です。
例えば、親の希望通りの大学に合格した時は、恨みがましい気持ちはあるにせよ、安堵する気持ちが大きいでしょう。「承認欲求」を満たせたからです。
一方で、アドラー心理学では、こうした他者からの承認を求めることを否定します。
大学進学は子どもの「課題」であり、親の「課題」ではありません。そのことを明確に分離して、親は子どもの「課題」解決に、いつでも援助する用意があることを伝えておけばいいのです。
大学を卒業して、就職先を自分で決めたとします。その就職先について、両親が猛反対し、涙を流して悲しみ、親子の縁を切るとまで迫られたとしても、この「認めない」という感情に折り合いをつけるのは両親の課題なのです。
自分の生きる道について、自分にできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけなのです。
承認欲求は不自由を強いる
人には、他者にある程度は介入して欲しい、自分の道を他人に決めて欲しい、という側面があります。他者の期待を満たすように生きる方が楽だからです。
自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てきます。「いかに生きるべきか」という壁に直面することになります。
他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか、これは大切な問題です。
他者の望みをかなえるように生きること、それは非常に不自由な生き方です。なぜそんな生き方を選ぶのでしょうか。承認欲求という言葉を使いますが、要するに誰からも嫌われたくないのです。
しかし、周囲に10人の人がいて、全員の期待に応えようとしても、そんなことをずっと続けることは無理です。
他者の期待を満たすように生きること、自分の人生を他人任せにすることは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方と言えます。
ほんとうの自由とはなにか
他者から嫌われたくないと思うのは自然な欲求であり、衝動です。しかし、こうした欲望や衝動におもむくまま生きることを「自由」と言うことはできません。
ほんとうの自由とは、こうした欲望や衝動に従って坂道を転がり落ちる石になることではなく、転がる自分を下から押し上げていくような態度のことを指すのです。
すなわち、ほんとうの自由について、アドラーは「自由とは、他者から嫌われること」だと結論づけています。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして、対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
まとめ
アドラーは、真に自由に生きたいなら、人から嫌われることを恐れてはいけない、と説きます。
「嫌われる」という言葉は、強い意味が込められていますが、この言葉を、僕は「後ろ指を指される」「バカにされる」「イタい人だと思われる」という意味に拡大解釈しています。
こうした言葉を我が身に受けることを考えると、長年にわたり身に付けてきた「世間体」「見栄」「プライド」といったものとの戦いになります。
そう、今から4年前・・・僕は、この戦いに挑み、刀折れ矢尽きそうになったことがあります。そのことについては次回に…
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2017.2.24記)