(画像出典元はこちら)
8月6日の「広島平和記念日」に続いて、追悼を捧げる日を迎えました。今日8月9日は、「長崎原爆の日」です。
長崎に原爆が投下された日
今から73年前の1945年 (昭和20年 ) 8月9日午前11時ごろ、米軍のB29爆撃機「ボックスカー」がプルトニウム原爆「ファットマン」を投下しました。
8月6日に広島と襲ったものと同様、長崎市松山町の500m上空で爆発したのです。
一瞬のうちに、約7万4千人の市民が死亡し、約7万5千人が重軽傷を負いました。そして、その後長い期間にわたって苦しむ人々を生み出しました…
(長崎「平和祈念像」: 出典元はこちら)
許されない一般市民の大虐殺
広島で約14万人、長崎で約7万4千人、合わせて20万人を超える非戦闘員である一般市民が、たった2発の原子爆弾で命を落とし、更に後世に至るまで多くの傷跡を残しました。
軍隊に属する兵士ではなく、非戦闘員に対するこの行為は、戦争によるものではなく、国家によって行われた単なる大虐殺です。
日本の敗戦は明らかな状況で、あえて原爆を投下したのは、米軍兵士の損失を最小限とすべく本土決戦を避けるためとも、戦後体制を睨んでソビエト連邦に対して、少しでも優位な立場を築こうとしたためとも言われています。
米国内でも、非人道的な原爆投下には反対意見が多かったと言われています。
そんな状況で、無残にも犠牲になった方々、長い苦しみを余儀なくされた方々の無念は如何ばかりでしょうか…
改めて「不戦」を誓い、憲法改正を考える
人を一人殺しただけで、とても大きな罰が与えられます。それが、戦争を早く終わらせるという目的で、一般市民を大虐殺したことが正当化されるのはあまりにも不条理です。
やはり、現行憲法第9条に掲げられた「不戦」の誓いを強く持ち、戦争は絶対避けなければなりません。ただし、その誓いは堅持しつつ、戦後の占領下において、即ち主権を取り戻していない段階で作られた憲法は、独立国家にふさわしい形となるよう、適正に改正されなければいけないと思います。
「憲法」は全ての国民が拠って立つところ、すなわち「在り方 (Being) 」を定めたものでもあると思うのです。その憲法をどう改正するのか、一人の国民として関心を持ち、注意深く見守っていきたいと思っています。
・・・・・・・
さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
・・・・・・・・・・・・
(2018.8.9記)