(画像出典元はこちら)
さて、「今日の一言メモ」第62回です。
「新約聖書」にあるキリストの言葉
僕はキリスト教徒ではないのですが、「新約聖書」に出てくるイエス・キリストの言葉が心に残っています。それは、次のような言葉です。
イエスは言われた。
『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。
しかし、いま、『見える』とあなたたちは言っている。
だから、あなたたちの罪は残る。
自分から見えているのは一面的な側面かも…
「見る」という言葉には、文字通り物事の表面が見えている、という意味の他に「診る」「観る」「看る」「視る」というニュアンスの違う表記があります。
自分の経験上、物事の上っ面を眺めて「ああ、これはこういうことね」と早合点し、本質を見誤り失敗することがあります。
それは「自分には見えている」という大いなる勘違いに過ぎなかったケースです。
そして「これはこういうことだ」と断定し、他の人からもそう見えているはずだ、と思い込んでしまい、後から見方が違うことに気がついてアタフタするのです。
自分の見方と他の人の見方は異なるかもしれないと常に自問する
特に歳を重ねてくると、自らの思い込みは激しくなります。若い方が、自分と違う見方をすると「いや、それは違う」と頭ごなしに決めつけそうになります。
でも、その時は、なぜ相手はそういう見方をしたのだろう、と考え、その見方に辿り着いたプロセスを聞いてみるようにします。
すると、自分の見方が浅はかだったことに気づき、相手の見方にすごく納得することがあります。
結構、若い方の考えに教えられることも多いので、いくつになっても、その姿勢を忘れずにいようと自戒しています。
・・・・・・
さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
・・・・・・・・・・・・
(2019.3.16記)