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さて、「今日の一言メモ」第266回です。
「鑿と言えば槌」
「鑿 (のみ) と言えば槌 (つち) 」とは、万事に気が利くことの例えです。
鑿 (のみ) を取って欲しいと言われれば、鑿を打つのに必要な槌 (つち) も一緒に持ってくきてくれるほど気が利く、という意味からこう表現されるようになりました。
「鑿」とは、木材、石材、金属等に穴を穿ったり溝を刻んだりするのに用いる道具のことで、「槌」とは、物を打ちつけたり潰したりする道具のことです。
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気配りは、鍛錬の賜物か
人は、小さい頃から「自分がして欲しいことを、人にしてあげなさい。自分がして欲しくないことは、人にはしないようにしましょう。」と教えられてきたと思います。
でも、大人になってくると、自分がして欲しいことが、必ずしも万人のして欲しいことではないことに気付かされます。良かれと思ってしたことが、却って余計なお世話になってしまうこともあります。
そんなあれやこれやを経験した上で、気配り上手になれる人はいますし、なれない人もいます。
見ていると、本能的に身体が動く人は、持って生まれた才能があり、センスを持っていると思えます。
良い意味での「忖度 (そんたく) 」ができる人間になることを厭わない
まだくすぶり続けている「森友学園」と「加計学園」をめぐる問題は、官僚による忖度が働いたかどうかが焦点になりました。
それ以来、忖度するのは悪い事だ、という風潮が一般的になってしまった気がします。
「忖度」を広辞苑で検索すると、「他人の心中をおしはかること。推察。」と出てきます。決して悪いことではないですね。
「阿吽の呼吸」という言葉がありますね。これも広辞苑で検索すると、「共に一つの事をする時などの相互の微妙な調子や気持。特に、それが一致することにいう。」とあります。
忖度も阿吽の呼吸も、外人に説明して理解して貰うのが難しい言葉のようです。それだけ古来、日本人に伝わってきた文化なのかもしれません。
正しい意味での「忖度」ができて、「阿吽の呼吸」が実現すれば、それは必要とされる人材になるのではないでしょうか。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2019.11.12記)