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さて、「今日の一言メモ」第806回です。
「稽古は強かれ、情識はなかれ」
「稽古は強かれ、情識(じょうしき)はなかれ」は、鎌倉中期の能役者である世阿弥が残した言葉です。意味は、稽古も舞台も厳しい態度で務め、決して傲慢になってはいけない、ということです。
世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこの言葉を使っています。「情識」とは、傲慢とか慢心といった意味です。「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」という、それまでの社会通念を覆したのが、世阿弥の思想でした。それは、「芸能とは人生をかけて完成するものだ」という考えなのです。
「老骨に残りし花」は、観阿弥の能を見ての言葉です。老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと、世阿弥は何度も繰り返し語っているのです。
僕の「生き方」を定めた言葉
慢心は、人を朽ちさせます。それはどんな時代の、どの人にも当てはまることでしょう。そして、ある頂きを究めたとしても、その先には更に大きな頂きがそびえています。人がその一生をかけて究めることができるのは、たくさんある頂きの内、ほんの一部の頂きです。
このブログで何度もご紹介してきた故・高倉健さんが大切にしていた言葉があります。高倉健さんは、2014年11月10日に亡くなりましたが、その死の直前に書いた手記に記された座右の銘が次の言葉です。
「往く道は精進にして、忍びて終わり、悔いなし」
意味は、以下の通りです。
行く道は精進にして
辛いことがあっても、それは精進である。
自分を高めるために必要なことなのだ。
忍びて終わり、悔いなし
それを我慢したまま、たとえそれで終わることがあっても、自分の向上にとっては確実にためになっているのだから悔いはない。
高倉健さんは、俳優という仕事を通して、多くの人の行く道を照らし、励まし、その生き様を通して人を導いてきました。まさしく、その生き方は精進そのものであり、志半ばで病にその命を奪われましたが、悔いは無かったと思います。
これまでの人生で、先人たちが残したさまざまな言葉に出会ってきました。一つひとつの言葉が僕の財産です。そうした先人たちの言葉もあって、自分の生き方を次のように定めることができました。
「人さまに貢献するために精進し続けること」
これからも定めた生き方がブレないよう、精進していきたいと思っています。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2021.10.13記)