Challenge Next Stage 〜目指せ!出版への道〜

020 【ITおじさんの、楽に・楽しく・情報化 (3) 】プロローグその2・・・

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さて、本シリーズでは今迄2回アップしました。今日は3回目です。

(1) 【ITおじさんの、楽に・楽しく・情報化】シリーズ開始
(2) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその1
(3) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその2
(4) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその3

前回のアップでは、当方がどのようにしてITおじさんとなったのか「プロローグその1」として以下をお伝えしました。

Ⅰ. OA※暗黒時代から黎明期へ  (※ 事務作業の自動化=Office Automation)
今のパソコンとは全く異なりますが、1970年代の終わりにプログラム大型電卓と出会ったことにより複雑な計算業務から開放された。
・・・まさしく今の自分に至る原点
・・・ → 今ある仕事を如何に「楽に・早く・間違いなく」片付けるか。

Ⅱ. 関西で迎えたパソコン誕生期
当時のパソコンではBASICと呼ばれるプログラミング言語でプログラムを組まないと何も出来なかったが、純国産のSORD社のパソコンにより簡単な表作成と計算ができるようになった。それを営業事務に活用して楽をしようとしたら大型契約までとれてしまった!
・・・自分を更にコンピュータ活用に向かわせる決定的な出来事
・・・ → 計算処理から役に立つデータベースへ。

それでは、パソコンの技術革新が進んでいく中で、仕事にそして生活にどのような変化が当方にもたらされたのか見ていくことに致しましょう!

 

Ⅲ. 京都でMS-DOSパソコンの登場を迎える

大阪に転勤して3年が経ち、浪速の商慣習にも慣れた1986年※、丁度30歳の時にまたまた転機が訪れます。

※あのチェルノブイリ原発事故が起こり、テレビでは明石家さんまと大竹しのぶが結婚するきっかけとなった「男女7人夏物語」が放送された年です。

そろそろ本店に転勤かなあ、と思っていたら、大阪支店管下に京都営業所を設立するのでそこへ行ってくれという内示がありました。並行して結婚話がとんとん拍子で決まったのです。

そして京都は桂離宮近くに新居を構え、新婚生活をスタートさせると共に京都で営業マンとしてお仕事が始まりました。浪速の商慣習とは全く異なる千年の都の文化に戸惑う日々でした。何せ先の戦というと「応仁の乱」になるし、老舗と呼ばれるには少なくとも江戸時代に創業していないとだめという土地柄です。

そんな中で新しいパソコンと出会います。再び「自分史」から一部引用してみます。

PC関連の京都営業所時代のエポックメークは、MS-DOS※搭載パソコンの登場、ワープロソフト一太郎、表計算ソフトLotus1-2-3の導入であろう。世の中は、NEC PC9801シリーズが席巻していたが、会社に導入されたのは東芝製ラップトップPCのJ3100シリーズであった。

※ マイクロソフトが当初IBMのPC用に開発したディスク・オペレーティング・システム(Disk Operating System) で、ファイルの読み込み・保存等の機能を提供 (ソフトとハードの橋渡し) する基本ソフト(OS)。Windowsのように複数のソフトを同時に起動(マルチタスク)することが出来ず、一つのソフトしか起動(シングルタスク)出来なかった。

デスクトップPCに対してラップトップ(膝の上)PCと呼ばれたが、こんな言葉はもう死語であろう。その実、重量4kgオーバーと重く、ラップクラッシュPCとも呼ばれたJ3100は標準搭載メモリが確か640KB で、ハードディスクは20〜40MB (メガバイトでありギガバイト<GB>ではない、念の為)、最高スペックのSGTというモデルは100万円超!であった。メモリ2MBを追加するのに10万円近くかかった記憶がある。Lotus1-2-3も9.8万円と高額であった。

それでもSORD PIPSマシンに比べれば随分進化したもので、PIPSでは計算させる度にコマンドを打ち込まなくてはならなかったが、Lotus1-2-3ではセルに計算式を埋め込むことが可能になり、後から何度でも自動再計算が可能という、今では当たり前だが、当時はまさに目から鱗の仕様だったのだ。

それにLotus1-2-3では、マクロ機能※があり、処理を相当程度自動化できたのである。MS-DOSのバッチファイル※と合わせ、ここでもなんとか仕事を楽にしたい、早く帰りたい根性を発揮、書店で参考書を買い漁り、面倒な決算書3期分の財務分析プログラム等を作成し、あまりに便利なので本店や他の支店の営業マンにばらまいて喜ばれた。更に将来の決算数値の変化によるシミュレーションも可能になっていった。

※マクロ機能とは、一連の手動操作を記録しておき、それを自動実行させること。さらに、自動実行専用マクロ命令を使うと、(手動操作では困難あるいは不可能な) より高度な内容の処理を行うことも可能。

※バッチファイルとは、パソコンに送る指令(コマンド)を一行ずつ書いてテキストファイルとして保存したもの。実行すると上の行から自動的に指令が実行される簡易なプログラムとなる。

こうして今迄大変だった仕事を効率化・省力化すると共に、手作業ではする気にもならなかった様々なシミュレーションが可能となり、パソコンの利用が定着すると共に、その利用方法も深化していったのです。

 

Ⅳ. 東京に戻りパソコン通信が世界を広げる

昭和天皇が崩御され元号が平成に変わった1989年※、6年半に亘る大阪・京都勤務を終えて本店に戻ることになりました。

※ 同じ年の6月、中国では天安門事件が勃発し、国内では美空ひばり逝去の報が流れました。

異動先は人事部です。ここでも「自分史」を紐解いてみましょう。

どうやら配属の第一要因としてパソコンに詳しい者、というのがあったらしい。で、最初の仕事は社員の賞与計算。なんと当時500名程の社員の給与や賞与は、Lotus1-2-3のワークシートで計算し、給与計算会社に提出する帳票にプリントアウトしていたのである。

当時のPCのスペックでは、メモリを最大拡張可能な4MBにしても、流石に500人分の計算に時間がかかるので、再計算機能をオフにして入力が終わってからおもむろに再計算、1〜2分待ってやっと計算終了という状態であった。

それに、1つのワークシートでは容量にも限界があり、複数のファイルで人事データを管理しているのだった。これでは、社員が増えたり減ったりした時や異動があった時に全てのファイルをメンテナンスしなければならず、データベースの導入は必然であった。

前任者が導入だけしていたPC用のリレーショナルデータベース※ソフトである「MRDB」を使って大急ぎで人事データをLotus1-2-3からパスし、部署、資格等のコード表と、基本的な人事マスターを作り、それをベースに職歴マスターや給与マスター、賞与マスターなどを次々と作成。

※リレーショナルデータベースとは、例えば一人の社員に関するデータを、社員番号や氏名等の基本データ、部署の異動歴データ、給与データ、賞与データ等複数の表に分けておき、全ての表に社員番号を入力、その社員番号をキーに各データを紐付けて処理を行うことで、合理的なデータの保持を可能とする方法。

気が付けば、またもや残業と休日出勤の日々が続いた。次なるステップは複数PCのネットワーク化。今のようなLANを構築するには結構面倒でSONYのデスクトップPCをサーバーとして設置、なんとかというサーバー用ソフトを導入して複数のJ3100をネットワーク化した。

こうした日々の中で、当時パソコン通信と呼ばれたサービスに出会います。再び「自分史」から引用すると・・・

この頃に始めたのがパソコン通信である。今のNIFTYの前身であるNifty-SERVEという会社が、パソコン通信という仕組みを提供していたのだ。

今では考えられないほど遅いモデムと呼ばれる通信装置をPCとアナログ電話回線に繋いでアクセスしたものである。ちなみに今の光回線では100Mbpsとか1Gbpsというスピードだが、当時は1,200bpsとか2,400bpsとか桁違いの遅さ・・・画像のやり取り等とんでもない時代であった。(そもそもテキストベースのデータしかなかったが・・・)

繋いでいる時間だけ従量課金される電話料金を節約するため、オートパイロットプログラムというものを有志がフリーソフトとして開発していて、それをダウンロードし、いかに通信時間を短縮するか工夫したものである。

当初は企業情報や人物情報等の有料データベースを利用するために始めたNifty-SERVEだが、そのサービスの一つとして、電子メールと共に当時フォーラムと呼ばれた電子会議室があり、共通の趣味やテーマ毎に同好の志が集い、文字だけで色々情報交換していた。

当方もパソコンの使いこなしやビジネス利用を工夫するフォーラムに入会し、様々な情報交換を行った。そして時にはオフ会が開かれ、初対面でもすぐに打ち解けて飲み食いし、大いに盛り上がったものである。

昨今のfacebookの普及によって、当時のメンバーと20年振りに交流が復活し、2012年暮れには8人が集まって忘年会が開かれ旧交を温め楽しい時間を過ごした。

このパソコン通信と呼ばれるサービスによって初めてパソコンが外の世界と繋がり、それまでの単なる事務処理マシンからコミュニケーションツールへと変貌を遂げたのです。

動画はおろか画像などもやり取りできない、本当に文字だけのコミュニケーションでしたが、会員だけのクローズな世界とはいえ全く見ず知らずの他人と出会い文字で会話し意見を交換する、という体験はとても刺激的でした。オフ会で初めてお会いしてもとても初対面とは思えない親密さを感じるのは不思議な体験でもありました。

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またまた長くなりました。続きは次回に譲ります。

次回はいよいよプロローグ最終編。今回最後にお伝えしたようにコミュニケーションツールに進化したPCが、インターネットやソーシャルネットワーキングサービス(SNS)、ブログの登場によって更にその世界に広がりを見せ、今のITおじさんを育んできた様子を是非お伝えしたいと思います。

それでは、プロローグその3に続きます!

【ITおじさんの、楽に・楽しく・情報化】シリーズ
(1) シリーズ開始にあたって
(2) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその1
(3) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその2
(4) 「我、如何にして、ITおじさんとなり得たのか?」プロローグその3

 

 

(2013.1.11記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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