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さて、地方創生をテーマにした記事を、今年に入ってからこれまで150近くアップしてきました。
そして、先日 (2016.8.3) 行われた内閣改造で、閣外に出た石破茂氏ですが、2014年9月3日に地方創生担当大臣に就任以来、2年近くその任にありました。
その石破氏が歩んだ足跡に触れた記事を読んで、改めて「地方創生」とは、日本が直面している有事に対応する重大事だと感じました。
石破氏が追求してきた「地方創生」の背景
その在任2年間で足を運んだ市町村の数は、250にのぼったそうです。北朝鮮や中国などの安全保障上の脅威だけではない日本の「有事」、それを抑止するためには地方による真の努力が不可欠だという認識からだったのです。
現状のままの出生・死亡の状況が、もしこの先も同様に続いた場合、西暦2100年には人口が半分に、そして、2500年には約44万人、3000年になると約1000人に減るという分析があるそうです。
もしそうなれば、事実上の国家の崩壊を意味します。そして、これには1955年からの15年間に、約500万人もの人が東京に流入したことが深く関係するというのです。
残業時間や帰宅時間などの「働き方」と、子供の数は大きく関係していることが、調査で判明しているとか。東京はいずれもワースト1。子供を産み、育てやすい環境である地方に若い世代が居住することが、この危機を食い止める第一歩となります。
そして、それが地方創生の取り組みのそもそもの根底にあるのです。
石破氏が種を蒔き、地方に芽生えた意識
これまで地方には、公共事業や企業誘致で雇用や収入がありましたが、海外での大量生産の時代になってから働き口が激減し、今後は若い女性の数も多くの市町村で減ります。
そこで政府は、「まち・ひと・しごと創生法」を成立させ、地方独自の活性化のための戦略策定を各自治体に義務付けました。
「すでにやっていますから…」
地方自治体からは、そんな反応が目立ったそうです。しかし、石破氏はすかさず切り返しました。
「市民は知っているんですか?」
住民が認知していない活性化など、対策にならない!と激を飛ばしました。
地方の人たちは東京の情報には詳しいが、地元のことを意外に知らない。まずは、それを知り、発信する、そこから始めてほしいと。そして、とかく「やりっ放し」になりがちな目標設定だけでなく、評価基準も定め、しっかり検証し成果を測ることも重視しました。
「東京のコンサルタント会社に依頼したものか、自分たちで作ったものか見ればすぐに分かる」と石破氏は指摘し、産・官・学・金・労・言 (=産業界、役所、教育機関、金融機関、労働組合、地域メディア) の協力で行うことを推し進めました。
そうして、地方は国に、また住民は役所に「お任せ」になりがちだった意識を変えようとしてきたのです。
石破氏の足跡に触れた記事の最後は、次のように結ばれています。
首長は町を歩き、大臣は地方を歩き、芽生えてきた地方創生の意識。それは、「日本人の幸せ」を見つける行脚だったと言えるのかもしれない。
最後に
2016.8.8にアップした当ブログの記事で、退任時の石破氏の思いをご紹介しました。
その中に以下のような部分があります。
経済成長下、人口増加の局面においてのみ有効に機能しえた国家システムを変えるという作業がいかに困難なことなのかを痛感した2年間でしたが、変革の芽は点から面へと拡がりつつあると認識しています。
国家・社会の構造を根本から変えていかなければ、抜本的な解決にはならないであろうことも感じております。それは「革命」や「維新」などといわれるようなものなのかも知れませんが、そこまで急進的である必要はなく、政治のみがそれを為し得るものだと思います。
一つや二つの内閣では到底為し得ないものである以上、いつかはこれに手を付けなくてはなりません。
静かに進む人口減、手をこまねいていては国家の存続にかかわる「静かなる有事」、それにどう立ち向かうか…そうした危機感が石破氏を突き動かしてきたのだと思います。
「国家百年の計」という言葉があります。石破氏は、地方創生担当大臣の任にあった2年で、国家のグランドデザインを描く必要性を痛感したのではないでしょうか。
そのために、一国の総理になること、日本のリーダーになることを手段として、そうしたことを実現したいという思いを強くしたのではないか、と勝手に推測しています。
というわけで、田中角栄の最後の愛弟子と呼ばれる石破茂氏の、今後の動きに注目したいと思います。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2016.8.29記)