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さて、今日の故事ことわざは、「衆人愛敬」です。
一昨日・昨日のブログ記事で、世阿弥の「離見の見」「初心忘るべからず」という印象深い言葉をご紹介しました。今日も、世阿弥の言葉を続けます。
「衆人愛敬」とは?
大衆に愛されることが一座の中心である、という意味です。
どんなに上手な能役者であっても、大衆に愛されることのない者は、決して一座を盛り立てていくことはできないということですね。
当時、能は「貴所」といって、貴族や武家の前で行うものでしたが、彼らに受け入れられているだけではいけない、と世阿弥は考えました。
貴族の前であろうと、山寺であろうと、田舎でも遠国でも、あるいは、神社のお祭りの時であろうと、どこでも喝采をうけるような演者でなければ、一座の中心として盛り上げる能の達人とはいえないというのです。
世阿弥が「衆人愛敬」といったもうひとつの理由は、自分の人気が失せた時の対策でした。
どんなに都でもてはやされていても、自分ではどうしようもないめぐり合わせで「女時」となり、忍耐を強いられることもある。そんな時には、田舎や遠国での人気が支えとなり、自分の芸が絶たれてしまうことはない。
自分を支持してくれる大衆さえいれば、都の評判如何に関わらず、なんとかやっていける。自分の場が失われさえしなければ、挽回のチャンス (=男時) はあると世阿弥は考えたのです。
男も「愛嬌 (愛される力) 」が必要
今はもう死語かもしれませんが、「男は度胸、女は愛嬌」という言葉があります。男にとって大事なのは、決断力があり物怖じしないことで、女にとって大事なのは、にこやかで可愛らしい振る舞いだという意味です。
でも、現代では女性にも度胸は必要でしょうし、男性も愛嬌がないといけないと思います。
愛嬌というと語弊があるかもしれませんが、可愛がられる、愛される、心をかけてもらえる、好かれる、という存在にならないと、楽しく生きていけないでしょう。
どんなにIQが高く優秀でも、周りをバカにして見下すような態度をとる鼻持ちならない人は、だんだん回りの人が遠ざかってしまうに違いありません。
一方で、「愛嬌 (愛される力) 」のある人は、いつも偉そうにせず、手柄は人に渡し、感謝の気持ちを忘れず、上から目線で語らず、いつも人さまのお役に立つことを心掛け、でしゃばらず、惻隠の情を持っていると言えます。
まあ、ここまで揃っている人もいないと思いますが、こうした点に留意して、自らの愛嬌の無さを、少しでも補っていきたいと思う次第です。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2017.10.11記)