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さて、今日の故事ことわざは、「稽古は強かれ、情識はなかれ」です。
ここ四日間のブログ記事で、世阿弥の「離見の見」「初心忘るべからず」「衆人愛敬」「時節感当」という印象深い言葉をご紹介しました。今日も、世阿弥の言葉を続けます。
「稽古は強かれ、情識 (じょうしき) はなかれ」とは?
稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない、という意味です。
世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこの言葉を使っています。「情識」とは、傲慢とか慢心といった意味です。
「芸能の魅力は、肉体的な若さにあり、一時のもの」という、それまでの社会通念を覆したのが、世阿弥の思想でした。それは、「芸能とは人生をかけて完成するものだ」という考えなのです。
「老骨に残りし花」は、観阿弥の能を見ての言葉です。老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと、世阿弥は何度も繰り返し語っているのです。
いくつになっても慢心せず、虚心坦懐に修練を重ねる
慢心は、人を朽ちさせます。それはどんな時代の、どの人にも当てはまることでしょう。
そして、ある頂きを究めたとしても、その先には更に大きな頂きがそびえています。人がその一生をかけて究めることができるのは、その中でも限られた頂きです。
少し話は変わりますが、ギリシャの哲学者であるソクラテスの言葉に「無知の知」があります。自分は無知であることを知っている (自覚している)、という意味ですね。
あのソクラテスをして、こう言わしめたのですから、人間どこまで究めても知らないこと、できないことは沢山あるわけです。
いわばどこまで行ってもゴールには到達しないわけですから、そこを目指すのでは無く、毎日毎日少しずつゴールに近づいていること、昨日より今日、前に進んでいることが大切だと思うのです。
そう考えれば、人生最後の日を迎えた時、ゴールに到達していないのは当たり前のことで、その日まで懸命にゴールに向かう道を歩き続けてきたかどうかで、その人の価値が決まると言ってもいいかもしれません。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2017.10.13記)