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さて、「今日の一言メモ」第319回です。
「十日えびす」
さて、今日1月10日は「十日えびす」です。「十日えびす」とは、大阪の今宮戎神社、兵庫県の西宮神社などのえびす神社で、正月の10日に行われるお祭りです。
前日1月9日を「宵えびす」、翌日1月11日を「残り福」と言います。縁起物を沢山つけた笹や熊手が「商売繁盛!笹持ってこい!」という賑やかな掛け声とともに売られて、商売繁盛を願ってお賽銭に1万円札が乱れ飛ぶ風景が見られます。
西宮神社では、鎌倉時代から宵えびすに、忌籠祭と呼ばれる潔斎が行われてきました。これは、戸締まりをして静寂を守り灯火も消し、籠もって夜明けを待つ神事です。
そして、禁忌の明けた10日午前6時に正門が開けられ、最初の参拝を競って約230メートルの参道を競走する開門神事福男選びが行われます。
トップでゴールした人は、「一番福」と呼ばれます。福男になると「その年の福を一身に集める」ように伝えられますが、本来は「福」を周囲に分け与えることができる、という意味だと聞いたことがあります。
終わりを思い描くことから始める
ゴールというと、「終わりを思い描くことから始める」という言葉を思い出します。これは、スティーブン・R・コヴィー著の「完訳 7つの習慣」に出てくる第2の習慣を表した言葉です。
この本では、単に依存している立場から、まず第1〜第3の習慣をもって「私的成功」に導き、依存状態を脱し自立を果たすことが書かれています。
そこから、第4〜第6の習慣により「公的成功」に到達し、望ましい「相互依存」の関係に発展する姿を描きます。
最後に、第7の習慣により、更にブラッシュアップすることが説かれています。
本書には、ある葬儀に参列して棺の中を見て、そこに横たわっているのが自分自身だと知り驚くシーンが登場します。
そして、親族・友人・仕事関係の知人・地域活動を一緒にしてきた知人が弔辞を読むのです。
ここで著者が読者に問いかけます。「あなたは、これらの人たちに、あなた自身あるいはあなたの人生をどのように語ってほしいだろうか?」
それに対する答えに含まれる価値観が、人生におけるすべての行動を測る尺度、基準となり、それを念頭におけば今日という一日を始めることに繋がっていく、と著者は説きます。
「私は何をもって憶えられたいのか?」
自分の葬儀で弔辞を読んでくれる方が、どのような弔辞を読んでくれるかは分かりません。
でも、どんな弔辞を読んで欲しいのか、については自分で決められます。そして、そのような弔辞を読んで貰えるように生きていくはずです。
すなわち、自分の過去や現在はともかくとして未来、それも自分の人生の最後を思い描き、そこから現在に向けて線を引くとしたら、今日を、明日を、これから1週間をどのように過ごしていくか、決めることができるのではないでしょうか?
ともすれば流されがちになる日常の中で、日々「私は何をもって憶えられたいのか?」と自問自答を繰り返すうちに、自ずからある方向を目指して進んでいくと思うのです。
そして、それが「明日死んでもいいように、今日を生きる」ことに繋がるでしょう。
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さて、今日はここまでにしますね。
では、また!
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(2020.1.10記)