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さて、「今日の一言メモ」第676回です。
「我思う、故に我在り」
「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり)とは、あらゆる存在は疑うことができるが、そう考えている自己の存在だけは疑うことができないという意味です。
フランスの哲学者・デカルトの『方法序説』にある「私は考える。だから私は存在する」という意味のことばからこう言われています。ラテン語では、「Cogito, ergo sum.」と書くそうです。
「自己肯定」でも「自己否定」でもない「自己受容」
人はなかなかやっかいなもので、何かうまくいかなければ「ああ、自分は何をやってもダメな人間だ…」と自己否定に陥る人がいます。
一方で、何かちょっとうまくいっただけで「自分は凄い!」と自己肯定が過ぎて過信したりする人もいます。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。
それに対して「自己受容」という言葉があります。これは、もしテストで50点しかとれなかったとしたら、そんな「自分」をありのままに受け入れ、もっとできるようと努力していくことを指します。
たとえ結果が思うようにいかなくても、その結果をそのまま受け入れて「うまくいくためにはどうしたらいいか」と考えて、悲観したりしません。それは、いわば「肯定的な諦め」と言えます。
自己受容とは、「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目することです。あるがままを受け入れ、ないものねだりをせず、勇気を持って行動し前進する。それが過去に拘らず、未来を悲観せず「いま、ここ」を生きるということだと思います。
「ニーバーの祈り」
古くから伝えられている祈りの言葉に、「ニーバーの祈り (英語:Serenity Prayer) 」があります。
serenityの日本語の訳語から「平静の祈り」、「静穏の祈り」とも呼ばれているそうです。
その内容は、以下の通りです。
神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
見分ける知恵を与えたまえ。
日本語訳(翻訳者:大木英夫)
変えることができることを変える勇気、変えられないものを受け入れる冷静さ、そしてこの二つを見分ける知恵が大事、という内容はいつの頃からか僕の心の中に常に存在するようになりました。
「いま、ここ」を生きるために
過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来だけだ、という言葉があります。でも、過去に起きた事実は変えられないとしても、それに対する解釈を変えることで意味づけを変えることはできます。
また他人の本質や性格を変えることはできないかもしれませんが、関係性を変える(たとえば昨日の記事に書いたように「縦の関係」から「横の関係」に変える)ことができれば考え方に影響を与えることはできるかもしれません。
いずれにしても、変えることができると思ったことには全力で取り組み「いま、ここ」を生きていきたいと思います。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2021.2.26記)