Challenge Next Stage 〜目指せ!出版への道〜

148 「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」が大切! 〜徒然なるままに〜

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前回は、Kidle PaperwhiteにiPad mini、そしてiPhone5も加え電子書籍を読んでいて、最近読み、今また読み返している「嫌われる勇気」の第一章にあたる「第一夜 トラウマを否定せよ」で感じたことをご紹介しました。

今回は、「第二夜 すべての悩みは対人関係」を読んで感じたことを書いてみます。

「第一夜 トラウマを否定せよ」まとめ

本書は、アルフレッド・アドラーの思想 (アドラー心理学) を、「青年と哲人の対話編」という物語形式を用いて紹介しています。

アドラー心理学の体現者である哲人は、次のように言います。

世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる

人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる

世界が複雑なのではない、「あなた」が世界を複雑にしている

それに対して青年は、自分は優秀な兄と比べて不出来であり、そのせいで両親から蔑まれ、他人と接するのを嫌い、劣等感に苛まれる不幸な人間と思い込んでいます。そして、哲人が言うことに対して一々腹を立て、なんとしてもその理論を喝破してやろうと意気込んで哲人の書斎を訪れるのです。

そして、その第一夜、青年は思いもかけず自分が不幸でいることを「善」としており、「変わらないこと」を選択しているのだ、と哲人に指摘され混乱します。

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そして、再会を約した青年は、それから一週間後に哲人の書斎に現れます。

「第二夜 すべての悩みは対人関係」

書斎図

今日も第二夜からキーワードを拾ってみましょう。

なぜ自分のことが嫌いなのか?

なぜ自分のことを嫌いになるのか?なぜ短所ばかり見つめ、自分を好きにならないのか?それは、他者から嫌われ、対人関係のなかで傷つくことを過剰に恐れているからなのだ。

この場合の「自分を嫌いになる目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」。即ち、こんな自分だから他人とうまく関係が結べない、という言い訳を作っているのだ。

孤独を感じるのは、自分がひとりだからでない。自分を取り巻く他者、社会、共同体があり、そこから疎外されていると実感するからこそ、孤独なのだ。我々は孤独を感じるのにも、他者を必要とする。即ち人は、社会的な文脈においてのみ、「個人」になるのだ。

「宇宙のなかにただひとりで生きることができれば、悩みはなくなる。アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言している。

劣等感は主観的な思い込み

例えば、身長が低いことに劣等感を持っているとした場合、問題は、その身長について自分がどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるのか、ということ。

劣等感を感じていたのであれば、それはあくまでも他者との比較−−つまり対人関係−−のなかで生まれた、主観的な「劣等感」である。もしも比べるべき他者が存在しなければ、自分の身長が低いなどとは思わなかったはず。

様々な劣等感に苦しめられているのは、客観的な「劣等性」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解する。

言い訳としての劣等コンプレックス

無力な状態から脱したいと願う「優越性の追求」は成長の過程で当たり前のこと。それに対して、理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱くのが「劣等感」。

「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」とアドラーは語る。

なにもしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせ頑張ったところで」と、諦めてしまうのが「劣等コンプレックス」であり、劣等感とは異なる。コンプレックスとは、複雑に絡み合った倒錯的な心理状態を表す用語。マザーコンプレックス、ファザーコンプレックスと言えば、その意味合いが通じるだろう。

劣等感をバネにして努力や成長を促すきっかけになれば望ましいが、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態である劣等コンプレックスは望ましくない。

「学歴が低いから、成功できない」「器量が悪いから、結婚できない」というように、日常生活の中で「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇には収まらない。これは劣等コンプレックスである。

アドラーはこうした理屈を「見かけの因果律」と呼ぶ。本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう。

もし「学歴が低いから、成功できない」と考えているとすれば、それは「成功できない」のではなく、「成功したくない」のだと考えなければならない。

単純に一歩を踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。今享受している楽しみ−−例えば遊びや趣味の時間−−を犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える「勇気」を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、今のままでいたほうが楽なのだ。

自慢する人は、劣等感を感じている

「AだからBできない」という人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示している。劣等コンプレックスは、もうひとつの特殊な心理状態「優越コンプレックス」に発展していくことがある。

強い劣等感を克服しようと、努力や成長という方向に向かう勇気がない、かといって「AだからBできない」という劣等コンプレックスでも我慢できない。「できない自分」を受け入れられない。すると人は、もっと安直な手段によって補償しようと考える。

あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸るのである たとえば自分が権力者と懇意であることを、ことさらアピールする。それによって自分が特別な存在であるかのように見せつける。不幸自慢をする場合もある

人生は他者との競争ではない

「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上を目指さんとする競争の意思ではない。

誰とも競争することなく、この地平をただ前を向いて歩いていけばいい。健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。

他者と我々は「同じではないけれど対等」なのだ。勝ちや負けを競い合う場所から身を引く。自分が自分であろうとするとき、競争は必ず邪魔をする。

競争や勝ち負けを意識すると、いつの間にか、他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになる。もしも他者を「競争」の軸で考えなかった場合、人々は「仲間」になっていく。

ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要はなくなる。「負けるかもしれない」という恐怖から解放される。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになる。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者、それは自分にとって仲間と呼ぶべき存在になる。

「人々はわたしの仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方はまったく違ったものとなる。

権力争いから復讐へ

もしも面と向かって罵倒されたら、腹を立てるのではなく、その人の隠し持つ「目的」を考える。相手の言動よって本気で腹を立てたときは、相手が「権力争い」を挑んできたのだと考える。

例えば、政治論議が白熱すると、自分の意見に相手を従わせようとする。これが権力争い。よしんば一度は勝ったとしても、次は「復讐」の段階になる。

これは親に虐げられた子どもが非行に走ったり、リストカットなどの自傷行為に走ったりする場合にも当てはまる。子どもが隠し持っているのは「親への復讐」という目的である。親を困らせることが復讐。

非を認めることは「負け」じゃない

面と向かって人格攻撃されたら、相手が権力争いを仕掛けていると察知し、いち早く争いから降りることが大事。何もリアクションを返さないこと。

人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れていることに注意すること。主張の正しさを証明することから、間違っている相手を正すこと、即ち相手に勝つことに目的が移ってしまい、結局は権力争いになる。

自分が正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結すべき話である。誤りを認めたり、謝罪の言葉を述べたり、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではない。

直面する「人生のタスク」をどう乗り越えるか

どうして他者を「敵」だと見なし、「仲間」だと思えないのか?それは「人生のタスク(課題)」から逃げているせいだ。
アドラー心理学では、人間の行動面と心理面のあり方について、はっきりした目標を掲げている

行動面の目標2つ
① 自立すること
② 社会と調和して暮らせること

この行動を支える心理面の目標として2つ
① わたしには能力がある、という意識
② 人々はわたしの仲間である、という意識

これらの目標は、アドラーのいう「人生のタスク」と向き合うことで達成できる。人が成長する過程で生まれる対人関係を「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つにアドラーは分けて、まとめて「人生のタスク」と呼んだ。

この場合のタスクとは、もっぱら対人関係を軸とした、対人関係の距離と深さである。アドラーは「3つの絆」という表現を使うこともあった。ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係、それが人生のタスクである。

まず一番目は「仕事のタスク」。他者との協力なくして成立する仕事などない 但し、距離と深さという観点から考えると、仕事の対人関係はもっともハードルが低い。

この段階の対人関係でつまずいてしまったのが、ニートや引き籠もりと呼ばれる人達。不採用が続いたり、仕事で大きなミスをしたりしても、仕事そのものが嫌になったのではなく、仕事を通じて他者から批判されたり、叱責されたり、お前には能力が無いのだ、この仕事に向いていないのだと無能の烙印を押されること、かけがえのない「わたし」の尊厳を傷つけられることが嫌なのだ。つまり、すべては対人関係の問題である。

二番目に「交友のタスク」。仕事を離れた、もっと広い意味での友人関係。仕事のような強制力が働かないだけに、踏み出すのも深めるのもむずかしい関係である。

自分が変われば、周囲も変わる。他者が変わるのを待つのではなく、そして状況が変わるのを待つのではなく、自分が最初の一歩を踏み出すことが大事。

そして三番目が「愛のタスク」。これには2つの段階がある。恋愛関係と家族との関係、特に親子関係 このタスクが最も難しい。

「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思えたとき、愛を実感することができる。恋愛関係や夫婦関係には「別れる」という選択肢があるが、親子関係では原則としてできない。

恋愛が赤い糸で結ばれた関係だとすれば、親子関係は頑強な鎖でつながれた関係。しかも自分の手には、小さなハサミしかない。親子関係の難しさはここにある。どんなことがあっても逃げてはいけない。まずは向かい合うこと。一番いけないのは、「このまま」の状態で立ち止まること。

「人生の嘘」から目を逸らすな

恋人や夫婦で、ある日を境にして相手のやることなすことが気に入らないようになるのは、別れることを目的として、その口実を探しているのである。

さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、アドラーは「人生の嘘」と呼んだ。

アドラーは、人生のタスクや人生の嘘について、善悪で語ろうとはしない、いま語るべきは、善悪でも道徳でもなく、「勇気」の問題。

所有の心理学から使用の心理学へ

アドラー心理学は、「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」、すなわち「所有の心理学」ではなく「使用の心理学」である。

フロイト的な原因論は「所有の心理学」であり、やがて決定論に行き着く 一方、アドラー心理学は「使用の心理学」である。

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キーワードのご紹介が長くなりました。富田は来月58歳になりますので、それなりに様々な人生の悩みを経験してきた積もりです。進路や結婚等人生の大きな問題から、日常的に起こる様々な摩擦、時として起こる事故への対応、そして親兄弟親戚との対応等、本当に色々でした。

そうした悩みを分解していくと、最終的には対人関係に行き着くとするアドラー心理学の考えは、100%納得できないまでも大いに説得力があるものです。

特に、「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」という考えは、昨年の社会人版キムゼミでもジョン・キム先生が、「過去と他人は変えられない、という。確かに過去に起きた事実は変えられないが、その事実をどう評価するか、どう意味付けするかは変えることができる。」と教示されていたことに通じます。

例えば、片足を失うような大怪我をした時に「なんで自分だけ、こんな目に遭うんだ…」と他者との比較で考えるか、「これはこれから生きていく上で大切な何かを得るために出会った試練なのだ…」と受け止めるか、ということでしょうか…う〜ん、難しいことではありますが。

もう少し考えてみますね。

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さて、今日はすっかり長くなりました。次回は「第三夜 他者の課題を切り捨てる」について書く予定です。
ではまた!(^_^)

 
 

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(2014.2.23記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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