前々回そして前回で、Kidle電子書籍の「嫌われる勇気」を読んで、「第一夜 トラウマを否定せよ」「第二夜 すべての悩みは対人関係」で感じたことをご紹介しました。
今回は、「第三夜 他者の課題を切り捨てる」を読んで感じたことを書いてみます。
「第二夜 すべての悩みは対人関係」まとめ
第二夜では、生きる上での悩みを突き詰めると対人関係に行き着くことが示されました。そして、「原因論」ではなく「目的論」をとるアドラー心理学では、「なにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか」という「使用の心理学」の立場をとっていることが明らかになったのです。
対人関係で起こる「人生のタスク」に対して、様々な口実を設けてそれを避けようとせず、きちんとそれに向かい合う「勇気」が大切であると説く哲人。そして、その勇気を語る上で欠かせない「自由」について次回語り合うことにした哲人と青年。
再会を約した青年は、それから二週間後に哲人の書斎に現れます。
「第三夜 他者の課題を切り捨てる」
今日も、第三夜からキーワードを引用します。
金銭的な自由を得てもなお、幸福にはなれない。現実的なしがらみ等の対人関係の悩みは残る。
親は「敵」でもないし「仲間」とも言えない。厳しい親は何かと進路に口出ししてプレッシャーをかけ続けた。こうした要請は、まさしく「しがらみ」だった。
青年が、親の希望通りの大学に進学した時は、複雑な恨みがましい気持ちもあったが、一方で安堵もあった。「承認欲求」を満たせたという。
アドラー心理学では、他者からの承認を求めることを否定する。
「あの人」の期待を満たすために生きてはいけない
自分の価値を、他者から承認されたいという感情が抑えられないのは、賞罰教育の影響。その先には「褒められなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルが生まれる。
われわれは「他者の期待を満たすためにいきているのではない」のである。他者の期待など、満たす必要はないのだ。自分は自分だけの人生を生きている。他者の人生を生きる必要はない。他者からの評価ばかり気にしていると、最終的にはそうなってしまう。
この点を理解するためには、アドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要がある。
「課題の分離」とはなにか
勉強しない子どもを強制的に勉強させたとしたら、勉強は好きにならないだろう。この場合、勉強するのかしないのか、誰と遊びに行くのか行かないのか、本来これは「子どもの課題」であって「親の課題」ではない。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと−−あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること−−によって引き起こされる。
誰の課題かを見分ける方法はシンプル。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えること。
但し、アドラー心理学は放任主義を推奨するものではない。子どもが何をしているか知った上で見守り、勉強であれば、それが本人の課題であることを伝え、いつでも援助する用意があることを伝えておく。
「馬を水辺に連れて行くことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあるが、アドラー心理学におけるカウンセリングはそういうスタンスをとる。カウンセラーは、相談者の人生を変えてくれるわけではない。自分を変えることができるのは、自分しかいない。
他者の課題を切り捨てよ
例え家族であっても、いやむしろ距離の近い家族だからこそ、もっと意識的に課題を分離していく必要がある。
その線引きをしないまま、自分の期待を親が子どもに押しつけることは、ストーカー的な「介入」になってしまう。
もしも人生に悩み苦しんでいるとしたら、まずは、「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知ること。そして、他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルにする第一歩。
対人関係の悩みを一気に解消する方法
例えば、自分の就職先に両親が猛反対し、涙を流して悲しみ、親子の縁を切るとまで迫られたとしても、この「認めない」という感情に折り合いをつけるのは両親の課題である。
自らの生について、自分にできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけである。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか、それは他者の課題であって、自分にはどうにもできない話。
これが、課題を分離するということ。
例えば、会社の上司にとことん恵まれていない場合、その上司から認めてもらうことは、最優先で考えるべき「仕事」ではない。こちらからすり寄る必要はない。
上司に疎まれていては、仕事にならない、というのは、仕事がうまくいなないのは、あの上司のせいなのだ、という口実に使っているだけ。これをアドラーは「人生の嘘」と呼ぶ。
まず「これは誰の課題なのか?」を考えてから、課題の分離をする。どこまでは自分の課題で、どこからが他者の課題か、冷静に線引きをする。そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になる。
「ゴルディオスの結び目」を断て
紀元前4世紀に活躍したマケドニアの国王、アレクサンドロス大王は、「この結び目を解いた者がアジアの王になる」という伝説のある神殿の支柱に固く結び付けられた結び目を一刀両断に断ち切った。
この時彼は「運命は、伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り拓くものである」と語った。
このように、複雑に絡み合った結び目、すなわち対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにか全く新しい手段で断ち切る必要がある。これは「課題の分離」に通じる。
課題の分離は、対人関係の最終目標ではなく、むしろ入口なのだ。たとえば本を読む時、顔を本に近付けすぎると何も見えなくなる。それと同じで、良好な対人関係を結ぶためには、ある程度の距離が必要。例え、家族・親子であっても。
青年は問う。自分のことを心配して声をかけてくれる他者の手までも、「それは介入だ!」と払いのけてしまうのは、他人の好意を踏みにじるものではないか、と。
そうした考え方は、「見返り」に縛られた発想である。他者に何かをしてもらったら、それを−−たとえ自分が望んでいなくても−−返さないといけないと。
対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが湧き上がってくる。われわれはこれに縛られてはいけない。
アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面がある。原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること…etc,etc
承認欲求は不自由を強いる
人は他者にある程度は介入して欲しい、自分の道を他人に決めて欲しい、という側面がある。他者の期待を満たすように生きる方が楽だから。
自分の道を自分で決めようとすれば、当然迷いは出てくる。「いかに生きるべきか」という壁に直面する。
他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか、大切な問題。
他者の望みをかなえるように生きること、それは非常に不自由な生き方。なぜそんな生き方を選ぶのか。承認欲求という言葉を使うが、要するに誰からも嫌われたくないのだ。
しかし、もしも周りの10人全員に忠誠を誓ったとしても、全員の期待に応え続けることはいずれできなくなり、結局は信用を失い、自らの人生をより苦しいものにしてしまうだろう。
他者の期待を満たすように生きること、自分の人生を他人任せにすることは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのである。
ほんとうの自由とはなにか
他者から嫌われたくないと思うのは自然な欲求であり、衝動である。カントはそうした欲望のことを「傾向性」と呼んだ。
こうした欲望や衝動におもむくまま生きることを「自由」とは言わない。ほんとうの自由とは、こうした欲望や衝動に従って坂道を転がり落ちる石になることではなく、転がる自分を下から押し上げていくような態度のことを指す。
すなわち、「自由とは、他者から嫌われることである」ということが「自由とはなにか?」の結論である。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴う。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われること。
例え、家庭や学校、会社、また国家などから飛び出して自由を手にしたように見えても、他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由にはなれない。
幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」も含まれる。その勇気を持ち得た時、対人関係は一気に軽いものへと変わる。
対人関係のカードは、「わたし」が握っている
哲人には、過去父親との関係がうまくいかず、殴られた記憶もあった。哲人は長い間、父親から殴られたから、関係が悪くなったと考えていた。フロイト的な原因論的な発想である。
アドラー心理学の目的論の立場に立てば「父親との関係をよくしたくないために、殴られた記憶を持ち出した」のだ。
自分と父親との関係を修復しないでいれば、自分の人生がうまくいかないのは父親のせいだ、と言い訳することができた。そこには自分にとっての「善」があり、封建的な父親に対する「復讐」という側面もあった。
目的論の立場で考えれば、対人関係のカードを自分が持てることに変わる。即ち、「殴られたから、父親との関係が悪い」と原因論で考えている限り手も足も出ないが、「父親の関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードは自分が握っていることになる。
自分が関係修復の決心をすれば、父親がたとえ関係修復の意思がなくても一向にかまわなくなる。対人関係のカードは常に「わたし」が握っていたのだから。
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さて、いよいよ本書のタイトルが「嫌われる勇気」とされた核心が示されました。内容を読むと、「嫌われる」ことを含めて「他者にどう思われようと構わない」というスタンスをとる勇気が大事だと、アドラー心理学では説いているようです。そう思うことで、対人関係の悩みは一気に軽くなるのだと。
そう解釈すると、富田が以前、1/17と1/18の2回に分けてこのブログでアップしたように、56歳にして他者からの評価を気にして新しいことに立ち向かえなくなったことを思い出します。結局、悩んだ挙げ句に「人からイタい人だと後ろ指をさされようと、みっともなくジタバタとあがく」ことを自分にとっての「チャレンジ(挑戦)」と定義して前に進むことができましたが。
本書で指摘されたように、突き詰めれば、生きる上での悩みは対人関係にあること、特に他者から評価されたい、認めてもらいたい、という欲求が根底にあることには同意せざるを得ません。そして、他者から認められることだけを目的に生きたら、それは他者の人生を生きることになってしまい、自分の人生とはならない、とする考え方も頷けます。
ただ、自分の課題と他者の課題を明確に分離し、他者の課題には介入しないこと、とする考え方は理解できても、実行することはなかなか難しいように思います。良かれと思って他者にアプローチすることが、「援助」の範囲なのか「介入」にあたるのか判断しかねることがありそうです。
何はともあれ、どのように接したとしても、昨年から新たに座右の銘に加えた「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」を忘れることなく、見返りを求めない生き方をしようと改めて決心したのでした。
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さて、今日もすっかり長くなりました。次回は「第四夜 世界の中心はどこにあるか」について書く予定です。第三夜で納得して帰ったように思えた青年ですが、また憤然とした様子で哲人を訪ねてきたようです。
ではまた!(^_^)
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(2014.2.24記)