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9月30日は、日本の戦後初の国産旅客機YS-11が定期便ラストフライトを行った日

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アイキャッチ画像

「今日は何の日?」シリーズ第80弾です。

今から8年前、2006年9月30日に、日本の戦後初の国産旅客機YS-11が、航空会社の定期便におけるラストフライトを行いました。

「YS-11」は戦後日本史に欠かせない

YS-11 (ワイエスいちいち) は、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機で、第二次世界大戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機でした。

終戦後、連合国の占領下による航空禁止令が布告され、日本にあるすべての飛行機は破壊されました。

航空機メーカーは解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目まで取り除かれてしまったのです。

その後、日本は1952年 (昭和27年) にサンフランシスコ講和条約の発効で、再独立を果たしました。これにより、日本企業による飛行機の運航や製造の禁止が一部解除されたのです。

その後、さまざまな紆余曲折や困難を乗り越えて、YS-11の試作機1号機が1962年 (昭和37年) 7月に完成します。

機体の設計に携わった人たちは、戦前に軍用機造りに携わってはいたものの、旅客機の設計をしたことが無い (それどころか乗ったことも無い) 人がほとんどでした。

このため設計は、軍用機の影響が強く、信頼性と耐久性に優れる反面、騒音と振動が大きく居住性が悪くなってしまいました。

それでも、戦前の航空機開発・製造で実績のあった日本で、自国製の航空機を再び飛ばしたいという思いと、「日本の空は日本の翼で」という願いを、多くの航空関係者が持っていたのです。

そして、改良に改良を重ね、1964年 (昭和39年) 8月には、運輸省(現国土交通省)の型式証明を取得し、国内線向けの出荷と納入を開始しました。

9月9日には全日空にリースされた2号機が、東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールしたのです。

定員は56〜64名で、機内はこじんまりとしています。

10 機内

民間定期路線からは引退

定期運航に用いられる航空機体への空中衝突防止装置 (TCAS) の装備を義務づけた航空法改正により、改修経費の関係で、2006年 (平成18年) 9月30日のラストフライトをもって、日本国内の民間定期路線より引退することになりました。

画像は、引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマークです。

20 引退間際に扉に塗装されたキャンペーンマーク

日本国内の民間定期路線のYS-11の最終便は、日本エアコミューターが最初にYS-11を飛ばしたのと同じ沖永良部空港 – 鹿児島空港でのフライトでした。

沖永良部空港では地元の踊り子によるエイサーで最終便を送り出し、鹿児島空港到着時には空港消防隊によるウォーターアーチと、ラストフライトの到着後に引退記念セレモニーが行われ、多くのパイロット、整備士、客室乗務員などが多数出席し引退を惜しんだとか。

ラストフライトの模様が、YouTubeに残されていました。

セレモニーには日本中のテレビや新聞、雑誌の取材が殺到し、ファイナルフライトと引退セレモニーの記事が多くの新聞の一面を飾ったそうです。

こうしてYS-11は、就航以来無事故で運航を完了できたのでした。

・・・という歴史は、「三丁目の夕日」世代の富田の記憶に残っています。東京オリンピックの開催、速度世界一の東海道新幹線の開通と合わせて、純国産旅客機の就航は、世界に誇れる出来事として少年の心に深く刻み込まれたのです。

開発の歴史を紐解くと、「モノ作り日本」を実現するために重ねた先人達の苦労はいかばかりであっただろう、という思いを深くします。

そして、これからも日本人として胸を張れるモノが作られていくことを大いに期待したい、9月最終日の昼下がりなのでした。

・・・・・・・
さて、今日はここまでにしますね。
ではまた!
 
 
・・・・・・・・・・・・
(2014.9.30記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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