2016年も4日目となり、お仕事スタートの方が殆どでしょうか?
さて、今年最初のチャレンジを、「新たなコンフォートゾーンを作り、そこに飛び込むこと!」と決め、その実現に向けて、つまらない「常識を疑い、縛られないこと!」を今年の抱負としました。
そして昨日は、疑うべき常識として具体的にまず「年相応」という言葉について考えてみました。
今日は、常識という周囲の目に振り回されないために気をつけることについて書いてみます。
「常識」は周囲が勝手に決めたもの
もちろん常識の多くは、長年にわたり人間関係をスムーズにし、社会生活を円満にしていくために必要なものです。
ところが、日本が長らく農耕社会で「村」の文化を育んできたせいか、どうしても「出る杭を打つ」風潮があります。
ちょっとでも人と違うことをすると、回りが寄ってたかって元に戻そうとする力学が働くように思います。
話は少し横道にそれますが、昨年から進められているTPPの問題をとっても、農家の方々の中でTPPに賛成の方がいたとしても、なかなか言い出せないのではないでしょうか?僕の誤解であったら申し訳ないのですが…
農業の世界には、今はJAですが以前は農協 (農業協同組合) という偉大なる共済組織が存在しています。
農家は生産に集中して、販売は農協が一手に引き受け、農作業に必要な農耕器具や農薬の仕入販売も農協が一元管理して行っています。
天候などに収穫を左右されやすい農業では、一部の地域の不作を他の多くの地域が補うなど、その役割は重要なものがありました。
一方で、全体方針に異を唱えることは、和を乱すこととしてタブーになってきたのではないでしょうか?
その中で、「我が家は農作物の品質を改善し、国際競争力を高めて勝負するから、TPPは賛成だ!」とはなかなか言えるものではないでしょう。
目標達成への判断基準を、自分の内部に持つ
そうした組織の束縛とは別に、もっと広く世間という得体の知れない存在があります。
いわゆる「世間体」と言われるものが代表でしょうか。
世間の常識と比較してどうか?という判断をするわけです。
これは、目標達成の判断基準を、自分の外部に置くことになります。
そうではなく、その判断基準を自分の内部に置くことで、世間の常識に振り回されることはなくなるでしょう。
例えば、ブログを続けるとして、「PV (ページビュー) を○万にする」という目標を設定したとすれば、それは目標達成の判断基準を外部に置くことになります。
ブログを読んでくれるかどうか、何人の人が読んでくれるか、は他者の行動に左右されることです。
そうではなく「○○というテーマに関する記事を、月○個以上アップする」という目標にすれば、それは自分の統制範囲に、つまり判断基準は内部に置かれることになります。
意中の人を恋人にすべくライバルと争う場合、恋が成就することを目標にしたら、判断基準を外部に置くことになります。それでは、ライバルがプレゼント攻勢で意中の人のハートを掴んでしまったら目標未達です。
そうではなく、意中の人のハートを掴むべく自分のベストを尽くすことを目標にすれば、それは完全に内部に置くことになります。例え、恋が成就しなくても自分のベストを尽くすことができたら、目標は達成できたことになるわけです。
終わりに
目標の内面化をすることは、他者と自分を比較し、他者を競争相手とする生き方をやめることです。
この生き方を貫くためには、不可抗力を断ち可抗力に立ち向かおうとする勇気を持てるかどうかに懸かってきます。
つまり、「結果責任を全て自分が負う勇気」が必要なのです。
意中の人のハートを掴むことができなければ、それはすべて自分の責任です。ライバルがやたら高価なプレゼント攻勢をかけたからだ、などという言い訳はできなくなります。
「常識を疑い、縛られない」生き方を貫くには、この自己責任を負う覚悟が必要だと思うのです。
そういう意味では、言い訳を許さない人生を歩んでいくという覚悟も必要ということですね。
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さて、今日はここまでにしましょう。
ではまた!
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(2016.1.4記)