Challenge Next Stage 〜目指せ!出版への道〜

151 「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、嫌われてもいい! 〜徒然なるままに〜

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前回まで4回にわたり、Kidle電子書籍の「嫌われる勇気」を読んで感じたことを書いてきました。

「第一夜 トラウマを否定せよ」
「第二夜 すべての悩みは対人関係」
「第三夜 他者の課題を切り捨てる」
「第四夜 世界の中心はどこにあるか」

今回は、いよいよ最終話「第五夜『いま、ここ』を真剣に生きる」を読んで感じたことを書いてみます。

「第四夜 世界の中心はどこにあるか」まとめ

前回の第四夜では、対人関係においては「縦の関係」から「横の関係」にしていくことが大事であること、そして、「横の関係」が構築できると素直な感謝、尊敬、喜びといった表現で、相手が自然に課題に立ち向かう勇気を持てるように「援助」できるようになる、と書かれていました。そして、それが「勇気づけ」なのだと。

富田としては、長く競争社会に身を置いてきた身に「縦の関係」が染み付いていてなかなか払拭できないこと、しかし、フリーランスとなって得た新たなコミュニティとの仲間と年齢性別に関係なく、新たな「横の関係」を結ぶことができていることについて書きました。

第五夜では、いよいよ青年が最後の問いかけを哲人に行います。そして、アドラー心理学の根底にある考え方が示されていきます。

さて、最後の夜、青年が哲人の書斎に現れました。

第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

第五夜 画像

今日も引用してみます。

自己肯定ではなく、自己受容

「自意識がブレーキをかけ、無邪気に振る舞うことができない」というのは、多くの人が実感している悩みだろう。では、この行為の「目的」を考えてみる。無邪気な振る舞いにブレーキをかけることで、なにを得ようとしているのだろうか?

ひとりであれば、誰もが王のように振る舞える。要するにこれも、対人関係の文脈で考えるべき問題。「無邪気な自分」がいないのではなく、ただ人前でそれができないというだけのこと。

具体的にどうすればいいかというと、自己への執着(selfinterest)を他者への関心(socialinterest)に切り替え、共同体感覚を持てるようになること。そこで必要になるのが、「自己受容」と「他者信頼」、そして「他者貢献」の3つになる。

ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はない。自己肯定ではなく、自己受容である。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけること。

一方の自己受容とは、仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。

例えばテストで点数が悪くても、その点数を受け入れて「100点に近づくにはどうしたらいいか」と考えるのが「肯定的なあきらめ」。

課題の分離もそうだが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めること。

「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかない。自己受容とは、そういうことだ。

『スローターハウス5』という小説にこういう一節がある。「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」と。

われわれはなにかの能力が足りないのではない。ただ〝勇気〟が足りていない。すべては〝勇気〟の問題なのだ。

仕事の本質は、他者への貢献

他者に信頼を寄せることは、すなわち他者を仲間だと見なすことにつながる。

つまり、「ここにいてもいいんだ」と思えるためには、他者を仲間だと見なす必要がある。そして他者のことを仲間だと見なすためには、自己受容と他者信頼の両方が必要。他者のことを敵だと思っている人は、自己受容もできていないし、他者信頼も不十分。

共同体感覚とは自己受容と他者信頼だけで得られるものではない。そこには3つ目のキーワードである「他者貢献」が必要になってくる。

他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのだ。

一生かかっても使い切れないほどの資産を抱えた富豪が、忙しく働き続けたり、慈善活動に尽力するのは、自らの価値を実感して、「ここにいてもいいのだ」と確認するため。すなわち、仕事の本質は、他者への貢献である。

人はいま、この瞬間から幸せになることができる

幸せになる勇気。では、その〝勇気〟のあり方について。

人間にとって最大の不幸は、自分を好きになれないこと。この現実に対して、アドラーはきわめてシンプルな回答を用意した。すなわち、「わたしは共同体にとって有益である」「わたしは誰かの役に立っている」という思いだけが、自らに価値があることを実感させてくれるのだと。

この場合の他者貢献とは、目に見える貢献でなくともかまわない。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのだ。

すなわち「幸福とは、貢献感である」。それが幸福の定義である。

人は自分を好きになりたい。自分には価値があるのだと思いたい。そのためには「わたしは誰かの役に立っている」という貢献感がほしい。そして貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めてしまう。

しかし、承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がないのはこれまで見てきた通り。

ダンスするように生きる

人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのだ。

例えば、バイオリンというダンスを踊ってきた人の中には、そのままプロになった人もいれば、別の道を歩んだ人もいるはず。いずれの生も「途上」で終わったわけではない。ダンスを踊っている「いま、ここ」が充実していれば、それでいい。

ダンスを踊っていれば、その場にとどまることはない。しかし、目的地は存在しないのだ。

目的地に到達せんとする人生は「キーネーシス的(動的)な人生」ということができる。それに対して、ダンスを踊るような人生は「エネルゲイア的(現実活動態的)な人生」といえる。

「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てよ

もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、全体を照らす照明の時にはうっすら見えていた過去も未来も見えなくなるはず。

過去にどんなことがあったかなど、「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

人生を物語に見立てることはおもしろい作業だろう。ところが、物語の先には「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまう。しかも、その物語に沿った生を送ろうとする。「わたし」の人生はこうだから、そのとおりに生きる以外にない、悪いのはわたしではなく、過去であり環境なのだと。

ここで持ち出される過去は、まさしく免罪符であり、人生の嘘に他ならない。しかし、人生とは点の連続であり、連続する刹那である。そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるだろう。

人生最大の嘘

生き方を見る時、どこに到達したのかを線で見るのではなく、どう生きたのか、その刹那を見ていく。

人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。

エネルゲイア的な視点に立ったとき、人生はつねに完結している。たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきものではない。20歳で終わった生も、90歳で終えた生も、いずれも完結した生であり、幸福なる生なのだ。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないこと。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることである。

無意味な人生に「意味」を与えよ

青年は思う。わたしは「変わらない」という決心をやめ、新しい生き方を、新しいライフスタイルを選ぼうとしているのかもしれない。……でも、でも、最後にもうひとつだけ聞かせてほしい。

いったい人生の意味とはなんなのだろうか?

人生の意味とはなにか?人はなんのために生きるのか?ある人からこの質問を向けられたとき、アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものだった。

過去を振り返ることに、どれだけの意味があるのだろうか?われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきである。

そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続ける。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。

哲人は青年に言う。あなたはご自身の人生に迷っておられる。なぜ迷っているか。それはあなたが「自由」を選ぼうとしているからだ。すなわち、他者から嫌われることを怖れず、他者の人生を生きない、自分だけの道を。

人が自由を選ぼうとしたとき、道に迷うことは当然あるはず。そこでアドラー心理学では、自由なる人生の大きな指針として「導きの星」というものを掲げている。

あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。

つまり、「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない、ということだ。

最後に哲人はアドラーの言葉を、もう一度青年に贈った。

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係ない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。」

そして、青年は一歩を踏み出した…

(完)

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いよいよ最後の夜に青年は新たな一歩を踏み出すことができたのです。この第五夜は、アドラー心理学の考えが色濃く示されたように思います。

「幸福とは、貢献感である」、それが幸福の定義である、と示されました。

本書のタイトル「嫌われる勇気」は「幸せになる勇気」と同義語に思えます。

哲人は青年にこう言いました。「どんな刹那を送っていようと、たとえ嫌う人がいようと、『他者に貢献するのだ』という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。」と。そして、そうするには「勇気」が必要なのだ、と。

自分の属する共同体を学校や会社といった小さな単位で捉えず、もっと大きな単位で捉え、その共同体の中で自分が貢献できることをやり続けること。その中で嫌われたり、裏切られたりしても、あくまでコミュニティメンバーは「仲間」であり「敵」ではないのだ、と考え信頼を失わないこと。そして、自分の貢献を他のメンバーがよしんば認めてくれなくても、自分自身の「貢献感」を常に大切にして、自分という「存在」に価値を見いだしていくこと。常に「勇気」を持って。

こうして纏めていっても、アドラー心理学をきちんと理解できるのか、甚だ不安です。文中にアドラー心理学をきちんと理解するまで、それまで生きてきた年数の半分がこれから必要、とありました。富田はもうすぐ58歳ですから、あと29年位必要ということです…87歳までかかるのか…頑張ります!(^^;

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さて、今日もすっかり長くなりました。次回からまた別のテーマでアップしますね。
ではまた!(^_^)

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(2014.2.26記)

富田 邦明

IT関係のコンサルタントをしております。
業務効率化・システム改善だけでなく、経営者視点のリスクマネジメントも同時に行い、人とテクノロジーのシナジー(相乗)効果を最大限にすること、そして、活き活きとした雰囲気で働ける環境作りを目指しています。

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